2023年2月28日火曜日

これもう春でしょ

今日は昨日より好天で快晴である。

陽光の中、ジャケットを脱いで歩けるくらいに暖かい。まだ2月なのに。お水送りもまだなのに。

多田ヶ岳を見ても、下の方にはもう雪がないようにすら見える。

ふと青空を見上げたら上弦の月が架かっていた。なんだか笑っちゃうね。

デウスクワークの倦んじ果てて浜に出てみたら、もうすぐ海に沈もうというのにまだまだ力一杯の太陽だった。春が来ているのだなと感じた。

2023年2月27日月曜日

春うらら

全国的に妙に気温が高く、2月というのに春爛漫。小浜もいい天気だ。

午前中に溜まっていたデスクワークをこなし、遅い午前中に海岸通りを徘徊。本当にいい天気で、ジャケットはいらないくらいだ。

海中を見れば、いろんな藻類がゆらゆらしている。すごろくさんならしばらくここから動かないんだろうなあ。

帰り道、護松園でゆっくりコーヒーを飲みつつ、完成した庭園に見入る。石材は地元のものが大部分だけれど、その中でも左手の大きな石は混在岩(オリストストローム)で、実に面白い。また、よく見ると片岩では?というものも混じっていた。

護松園近くでI先生の畑を覗いたら先生がいらっしゃって、ダイコンをいただいた。
紅梅が満開であった。紅梅といえばガラスの仮面はどうなるのだろうか。

うららかな春の日に、散々ベランダで遊んだからか、鈴はクッションの上でぐっすり寝ていた。

伊織も最近お気に入りのカゴの中でぐっすり。つられて私も簡易ベッドでぐっすりヒルネしてしまった。

2023年2月26日日曜日

けっこうギリギリ旅程

今日はもう帰るだけ。朝少し徘徊したあと朝食をとり、ホテルから少し歩いて長崎空港行きリムジンバスに乗車。ほぼ満員。本当にこの連休はどこも人出が多かったようだ。

ラウンジから大村市街を望む。長崎空港はもう10年ぶりくらいではないかと思う。

帝国より少しだけ遅れて離陸。大村湾を眼下に上昇。この飛行機も満席だ。

四国脊梁山脈付近であろうか。幸いにも偏西風にうまく乗ったか、定刻に伊丹空港に到着。超早歩きで出口に急ぎ、リムジンバスにぎりぎり間に合った。
新大阪駅でも駅弁を買うのが精一杯で、思えばちょっとでも遅れたら予定のサンダーバードに乗れない、かなり危なっかしい旅程を組んでいた。コロナ禍で旅が少なくなってカンが鈍ったのかなあ。
ともあれ順調に敦賀駅に到着し、ここからは車で帰宅。
久々に(でもないが)ニャンズと対面して癒やされました。

2023年2月25日土曜日

ド・ロ様

今日は女房も合流して世界遺産「潜伏キリシタン」のバスツアーである。こうれは沖縄の久高島でも思ったことだが、「気軽に入れるわけではない場所に入る」とか「ワンランク上の理解」ためには、自分一人での旅ではやはり限界があるのだよね。

で、最初はいきなり1LDKサイズの小屋みたいなところに行ったら、「これ、もっとセキュリティのしっかりした博物館に展示しなくちゃ」と思えるような貴重なものがずらりと並び、世界遺産登録の時に中心的な活躍をしたであろう人の口から潜伏キリシタンの歴史をそれはそれはわかりやすく教えていただいた。何このツアー、すごいんじゃない?

黒崎教会。林道秀作の「沈黙」の舞台ともなった、ド・ロ神父監修建築の教会である。ステンドグラスが見事。

ふと見ると、「町ぐるみ博物館」の看板が。「エコミュゼ」とは「エコミュージアム」、「ある一定の文化圏を構成する地域の人びとの生活と、その自然、文化および社会環境の発展過程を史的に研究し、それらの遺産を現地において保存、育成、展示することによって、当該地域社会の発展に寄与することを目的とする野外博物館」と定義づけられている。
ああ、これって小浜市で本当にやるべきことじゃないのか。

潜在キリシタンの聖地・枯松神社。日本に三つしかないキリシタン神社である。

この岩陰で寒さに震えながらオラショを唱えて、200年以上にわたり、神父も聖書もない中で信教を守り通し、開国後の「信徒発見」につながったのだ。
1865年3月17日の正午過ぎ、大浦天主堂を訪れた外海(そとめ)の一団が、自分たちはキリシタンであると信仰を告白した出来事で、世界のキリスト教の歴史においても奇跡と称されている。
そりゃそうだろう。200年以上の長きにわたって、教会も神父も聖書もなくキリシタンであり続けるなど誰が想像できようか。教会どころかこんな岩陰で信教を続けてきたのである。私はキリシタンではないが、それでも人の心の強さ、信じることの強さに圧倒されたのだから、キリシタンにとっては奇跡以外の何者でもなかろう。

そして横を見ればエコミュゼ。高齢者にはちょっとキツイ坂を上らねば枯松神社に行けないので、篠竹(細い真竹かな?)で作った杖が置いてある。小浜に戻ったら、愛宕神社の登り口にこれを作ったらどうかななどと考えていた。

ここからは、ひたすらド・ロ神父に圧倒される時間。明治維新の年(まだキリスト教は解禁されていない)に、おそらく布教のために意気高く世界の端っこの極東にやってきたのだと思うが、あまりに貧しい暮らしを目の当たりにして、社会福祉を強力に推し進めた神父である。貴族の次男で、今の価値にして10億円くらい持ってきたらしいが、それをことごとく地域のために使っている。
漁師町で夫を海難事故で亡くした未亡人が一番生活が苦しいことから、紡績やパスタ・そうめんといった地場産業を創出し、あまつさえそのための工作機械などを自ら設計したりヨーロッパから質の良い機械類を取り寄せたりしたらしい。
宗教に全てを捧げるとそうなるのかもしれないが(私にはそのあたりのメンタリティは理解できないが)、自分のためにではなく他人のためを優先したのだろうなと思うと、さらにそれを真っ先に一番弱い未亡人のためにやったのだと思うと心が震えた。
「弱いものが泣くような世の中はだめだ」と「あなたが喜んでくれて私は嬉しい」の二つが私の行動原則なので(そのことを最近数年ではっきり意識したので)、ものすごく共鳴してしまったのだ。

出津教会堂。これもド・ロ神父の監修。貴族なのに建築も土木も、さらに織布・製麺などなど、何でもできるスーパーマンだったようだ。これも憧れるなあ。私は「ワイズマン」になりたいとずっと思ってきたので。ただの物知りじゃなく、「知恵」のある、世の中で役に立つことをいっぱい知っている人間になりたいとずっと思ってきたので。

大野教会。出津をベースにしていたド・ロ神父が出張してくる教会だったらしいが、地元産の石を布積みした、それはそれは粗末な教会である。
それでもおそらく床は高床式にしてあり、日本ならではの湿気に対応して長持ちする建物を建てるなど、ド・ロ神父のマルチぶりがいかんなく発揮されていると思う。
ちなみにここだけは結晶片岩ではなく玄武岩を使って布積みしてある。板状節理をうまく使ったのだろうな。

外海は石積みのまちとしても知られている。この石垣は、下の方は何を使っているのかよくわからないが野面積みで(これは新しい時代のものじゃないかな)、その上は結晶片岩の布積み。布積みの長所は接地面が広いので摩擦が大きくなってしっかりする一方で、せん断面が通ってしまうので、どこかですべると大きな破壊に繋がりうるところだが、ここはよく見ると隅石部分を逆勾配で(つまり受け盤になるように)積んで、すべりにくくしてある。誰の知恵なのだろうか。これもド・ロ様か?

なんとも満たされた気分でホテルにチェックインして夕食まで少し散策。
坂のまち・長崎の夜景はきれいだ。

祈念坂を下りてホテルに戻る。長崎に限らないが、どの土地も数日程度滞在しないと数分の一すら理解できないなあと実感。

ホテルのすぐ横に大浦天主堂がある。長崎にぽっとやってきていきなり見れば「きれいな建物だな」程度なのだろうが、潜伏キリシタンのことを肌で感じつつ学んでから見ると、「ああ、これがあの外海からやってきた(どれだけ遠いかは実感している)信者が信仰を打ち明けた信徒発見の地なのだという思いがこみ上げてきて、なんだか涙が出そうになってくる。まさしく天地の差があるのだなと改めて学んだ。

どこかの土地に行って、自分が持っている知識やノウハウを伝えて、その土地の仲間達とわいわいと飲み語らうのは本当に充実しているし、人生の喜び以外の何者でもないと思うのだけれど、こういう深く学び考える一日も人生の喜び以外の何者でもないと心から思える。

2023年2月24日金曜日

長崎の濃密な日

博多から長崎へ。せっかくなので長崎新幹線とやらに乗ってみようじゃないか。

朝食は博多駅でかしわうどん。博多ラーメンも好きだが、これも好きだ。

武雄温泉駅までは「リレーかもめ」。コンパートメントがあった。

そして武雄温泉から長崎まで少しの間だけど新幹線「かもめ」。いつか博多駅まで延伸したらまた乗ってみたいな。

長崎駅前は工事真っ盛りであった。北陸新幹線も富山駅あたりはそうであったが、開業に間に合わずに工事が続いていると、わっと訪れた観光客を興ざめさせてしまう。富山はまだ一部工事中くらいだったが、これはちょっとどうかと思う。開業1年前の福井駅より前の段階という気がする。

こういう看板も勇ましいが…やはりこういうのを見て歩くと、開業時には全て(駅舎の一部を除いて)出来上がっていた金沢駅はすごいなあと思う。金沢市の繁栄は、新幹線さえ来れば打ち出の小槌のように儲けがやってくるといったものではなく、開業に照準を合わせてまちづくりができた者が勝つということを教えてくれている。そのことを福井県はしっかり認識できているならばいいのだが。

少し歩いて出島へ。ここに来なかったら長崎に来た意味がなかろうと思う。

出島はけっこうテーマパーク的になっていて、まずは観光地化して、その後でじっくり文化財として調査研究を進めていっているという感じを受けた。

レストランがあったので、昼食にトルコライスを。とんかつにケチャップとデミソースをかけて、サフランライスとともにいただくという、まあ我が国のあちこちにある「妙なヨーロッパ風の名前のついた洋食」シリーズのひとつだな。福井のボルガライス、佐賀のシシリアンライス、根室のエスカロップなどなど。しかしこのトシになって、まさかライスの上に旗が立っているランチを食うことになろうとは。^o^;

発掘された様々な石材が展示されていた…というか、立ち入り禁止になっていたし。
出島の護岸や石積みアーチ橋は安山岩や砂岩・礫岩を使っているらしい。

護岸は、最初は布積みにしていたが、徐々に野面積みになっていったとのこと。だんだんやっつけ仕事化したのかな。

基本的には捨石護岸である。こういうのを見ていると、杭が木杭であること(しかし木杭は水中にありさえすれば腐食もしないので十分土木の本設材として使えるのだ)以外は今の工法と変わらないなあと感じ入った。

出島の南側、中華街側には土木遺産である出嶋橋が架かっている。1890年に別のところに架橋されたものを1910年に移設したとのことで、我が区の初期のピン接合プラットトラス橋である。橋脚のない鋼橋はソソルものがありますねえ。

オランダ坂を上って東山手伝統的建造物群保存地区へ。南山手はグラバー園や大浦天主堂などがあってメジャーだが、東山手も重伝建指定なのである。私としてはなぜかマイナーがほうが気になるのである。

そして東山手地区のメインといえるのがこの東山手洋風住宅群。昔の社宅あるいは賃貸住宅とのことだが、グラバー邸や大浦天主堂に比べたらはるかにマイナーというか小粒なところがいいじゃないですか。

7棟あるのだが、そのうちひとつは町並み保存センター&カフェ。いつかこういうのやってみたいなあと思う62歳なのでありました。

残りの6棟はほぼ全部が古写真展示場。さすがにネタ切れ感はあるものの、ひとかたまりになっている地の利を活かして(おそらく補助金も活用しつつ)、できるだけ自活して保存していこうという地域の人たちの心意気が伝わる場所だった。
7棟のひとつで入館料を支払う。100円である。デジタル軍艦島の1/18である。こればかりは300円くらい取ってもいいんじゃないかと思った。
東山手地区が今後も保存活用していかれることを切に願う。

再び谷地に降りて、今度は南山手地区へ。「斜めに上るエレベーター」という人生初体験をした。

一番上から、「坂のまち・長崎」を見渡す。このアップダウンの多さは、ウォーキングの運動効果はすごいなあと思うとともに、電動アシストでない限り自転車はあり得ないよなあと思った。そういえば自転車をついぞ見かけなかった。

グラバー邸。建築意匠という点でも、また往時の文化を知る上でも大したものではあるのだが、私には東山手地区のほうが魅力的だった。

電鉄を乗り継いで原爆資料館へ。さらに近くの爆心地へ。やはり広島と長崎、そして沖縄に行ったならば、最初にこういったところに行かねばならないと私は思う。

こういうところに来ると気持ちがピリッとして、背筋が伸びる気がする。

ここは刑務所の後だったのだが、爆心地直近で職員も服役者も全員死亡したとのこと。当時の刑務所は一箇所から全部が見渡せるように放射状の配置だったのだが、それが一目瞭然の風景である。

時間があるので、平和公園からホテルまで歩いて行くことにした。3kmほどである。
ちょうど途中に山王神社二の鳥居があった。奇跡的に鳥居の半分だけが立ったまま残ったという。ちなみに倒れた部分は横手に保存されていた。

神社に上ると、千羽鶴とビン詰めの鶴。小学校の平和教育のようだ。こういうことが絶えずに続けられていることに感銘を受けた。こういうものは観光HPでは紹介されないから、現地に行って初めて気がつくものだ。
やっぱり現地に行ってナンボだなあと改めて感じ入った、密度の高い日でありました。