2014年10月6日月曜日

国語力

台風はそれてくれたようで、少し雨が多めに降ったかなという程度で予想外に静かな朝を迎え、福井駅東口のホテルから福井駅西口側にあるバス停まで傘をささずに行くことができた。
バス停近くの喫茶店で添削をしたりRCCM練習問題を作ったりして過ごし、バスに乗って会議のある西開発地区へ。
今日は福井県社会福祉協議会のボランティア作文コンクールの審査会である。まあいろいろあって今年は県社協の審議委員なのだ。
内容は特にここに書くべきものではないので省略するが、最後の講評で「誤字脱字や主語と述語の不整合などがあると、せっかく内容がよくても言いたいことが伝わらない」との話があったのが印象的だった。技術士やRCCMの論文もまさにそうで、文章力というのは理系人間の弱点であることが多いのではないかという気さえするほどだ。
計算書や図面などでの表現が多くて文章力が鍛えられないのか、あるいはいっそ文章を大事に考えていないのかわからないが、何度指摘しても改善しない(もしかしたら改善する気があまりない?)例もある。

また、誤字脱字や主語述語だけでなく、全体構成・ロジック展開も中学生くらいになると明瞭に差がついていることにも気が付いた。
前ふり的に「私はかつてこう考えていた」的なことを書いて、自分のボランティア体験を記述し、そこでの感想や感動を述べ、さらにそこからボランティア活動について考察していき、最後に今後の抱負を述べるという、見事な構成ができる子もいる反面、体験描写と感想と考察が入り乱れて散文的になってしまっている子もいる。
これも業務報告書や技術士論文でもよくあるパターンで、どこまでが事実でどこからが推定や考察なのかよくわからなかったり、時系列が乱れていたりするため、理解しにくいし納得もしにくいものがよくある。

国語力というのは思春期までに明瞭に差がついてしまうのかなとも思うとともに、一朝一夕で身に着くものでもないから、試験対策支援では本当に困ってしまうことがある。
試験まであと1か月か2か月しかないのに、何が言いたいのかわからないような文章しか書けない人に出会ってしまうと、どうしたらいいかわからなくてボーゼンとしてしまうこともある。
そのことを本人が認識してくれていればいいのだが、何がおかしいのかわからないとか、おかしいとは思わないとか、そうなってくると手の打ちようがない。

国語力の差はどこでつくのだろう。いろいろあるのだろうけれど、私は正しい文章を読んだ量の違いではないかなという気がしている。つまり読書習慣だ。
技術的な報文・論文を書くのであれば、やはり報文・論文や技術的内容の新書などをおおいに読むべきだろう。
そういう習慣を持たずに育ち、大人になり、さらに年月を経て、さあ論述試験を受けようという段になって、これまでの人生で培った国語力が乏しいことが如実に出てしまうと、今さら読書習慣を身に付けましょうとも言えないし、途方に暮れてしまうのである。知識が不足しているのなら勉強すればいいのだが、国語力のないのだけはどうすることもできない。
本当に長年にわたる読書と国語力を鍛えることは大事なものである。

…などと考えつつ、小浜まで車に乗せて行ってくれる人と待ち合わせのためてくてく歩いていくと、ふと歩道を歩いている人など自分以外に誰もいないことに気が付いた。
地方都市の郊外道路ってどこでもこんなものなのかもしれないね。
読みやすい論文を書きたいけど国語力が不足しているのと、コンパクトシティを目指すことを掲げているけれど車社会が染みついているのと、どちらも似たようなものだなあ。

0 件のコメント:

コメントを投稿