2012年1月11日水曜日

●だからダメ

沖縄・辺野古のアセスのニュースやサイトでの記事の中で目にしたのが、
「全項目『影響は小さい』って、そんなことあるわけないだろ!」
という意見だ。
確かにそう思うだろうなあ。でもアセスに携わった者には
「評価書はそうなるかもしれないなあ」
と思える。

…なーんて書くと、
「それは、『ウソでもそう書かないといけないだろうなあ』という意味だな」
と思っちゃう人もいるだろう。そのあたりが難しいところなんだよなあ。
アセスって、予測評価をする段階で
「こりゃけっこう影響がある」
という予測結果になると、影響を低く抑えるように設計の手直しをしたりすることがよくあるから、最終結果は「影響は小さい」になることはよくあるのだ。
つまり、設計内容にアセスが迎合したんじゃなくて、アセス結果を踏まえて環境影響が小さいように設計内容を手直しした結果が評価書になったりするわけである。
まあ辺野古がそうなのかどうかはわからないけれど、とにかくアセスというのはそういう性質のものだということだ。
しかしこんなことを理解している一般人などほとんどいないだろうから、
「全項目『影響は小さい』ってウソだ」
になったりするのだろう。

じゃあ、こういう反応を「非科学的な決め付け」と一蹴していいのか、というとそれもどうかなと思う。
人間ってなんでもかんても論理的・科学的に判断する生き物ではないし、社会の進む方向が情緒的なもの・非論理的なもので決められる側面も少なからずあると思うから、それはそれで仕方がないのではないかと思うのだ。
そもそも環境影響評価、さらには「環境」なんて、自然と人間がいかにしてうまく折り合いをつけてやっていくかということではないかと思う。
自然がよくて人間が悪なのであれば、人間はいっそいなくなるか、あるいは産業革命以前の生活に戻ればいいのである。一時のストレス解放ならそれもいいであろうが、ネットもケータイも自動車も近代医療も食料安定供給もない時代に戻るなどできるはずがないから、やっぱり人間は自然とうまく折り合いをつけてやっていくしかないと思うのだ。
つまり人間の都合というものを無視しては環境、環境影響評価なんて成り立たない。
そして人間の都合というのは、すべてが論理的・科学的なものばかりではない。

動作がアヤシイ、あるいはメーカーが不明なエレベーターがあると、「シン●ラー」というメーカー名が頭に浮かぶでしょう。
乗ろうとした飛行機がプロペラ機だと、「げ、まさかボン●ルディア」と思ったりするでしょう。
人間というのはイメージの動物、感情の動物であり、いつもいつも論理的考察をしているわけではないのですよ。

沖縄のアセスがなんら恣意的な作為なく完全に科学的判断によってのみ作られているという確証があるわけではない。そういうことを言っているのではなくて、ロジックというものが正否を決め、また人間の判断を決める十分因子ではないということを言っているのである。
私は「理系」と言われる人の欠点のひとつは、「論理的にそれが正しいということを証明することイコール納得する、賛成するということだと思ってしまうこと」だと思っている。
でも実際の社会では、
「お前の言うことは正しい。でもなんかやだ」
ということが往々にしてある。それを不当だとかいって受け入れないことはたやすいが、それでは人と人とのつながり、人の輪は生まれない。

さらにややこしいことには「信条」とか「政治」なんてものが人の心や社会には入り込んだりする。
「●教だからダメ」
「●宗派だからダメ」
「●国だからダメ」
「●党だからダメ」
「●人だからダメ」
そんなのはいっぱいある。つまり個々の中身ではなくレッテルである。
それは非論理的だと思うし、くだらないとも思う。
だけどそれが人間社会でもある。「●国だから嫌だ」と表だって言うと「偏った人間」とみられるだろうが、「シン●ラーだから嫌だ」と口に出してもまあ冗談程度ですんでしまう。
なんでも「だからダメ」と言ってしまった時点で思考停止になるんだけどね。

ああそうそう、こういうテーマだと「自分の考えが唯一正しい」とか「自分のやっていることが世界で一番大事」と思い込んでしまってどうにもならない人がときどき出てくるのも面倒くさい。
そこには議論はもはや入り込む余地がない。だって自分の言っていることに反対する人、自分のやっていることを認めない人は馬鹿であり、下等であり、悪であると思っているのだから。(特にこういう人が理系だったりすると、「自分の主張は論理的に正しい」という絶対的根拠を確信しているだけにいっそう面倒くさい)
互いを尊重しない間柄には議論ではなく罵倒や軽蔑しか存在しないのですよ。
論理的な考察と、互いを尊重しあう中での中庸といった関係ができると気持ちいいんだけどね。

2 件のコメント:

  1. 評価書が重要だという報道がなされていますが,内容が適正に実施設計や現場に反映されるかのほうが,もっと重要だと思うのですが,違うのかなぁ。
    高規格道路のアセスのフォローアップ委員会の開催に頭を悩ますこの頃です。

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  2. 評価書の内容がきちんと反映されることはもう大前提になっていなければならないこと、つまりそれが実行されないかもしれないなどと疑念がもたれるようでは、事業者がそもそも信頼されていないということになると思います。
    フォローアップも大事ですね。

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