2019年3月11日月曜日

8年目

あの日から8年目を迎えた。
あの後、自分にできることを考えて、どうせなら自分だからできることをやろうと思って、無償ボランティアでの受験支援を3年間続けた。
そもそも試験なんて受ける人いるんだろうかとも思いつつ、仙台以外は行ったこともないのに、とにかく希望があったらどこでも行きますよと言って、それから3年、仙台での講座は翌年からSUKIYAKI塾東北の活動になり、福島での講座はいわき市で続き、これで最後という3年目に3人の技術士が一気に生まれるという、ちょっとできすぎなフィナーレとなった。

ちょうど今日、今度の日曜日にSUKIYAKI塾東京の合格者祝賀会で依頼を受けている「各支部のSUKIYAKI塾の活動報告」のパワポを作っていて、SUKIYAKI塾の活動の歴史を振り返っていたところだが、2009年にSUKIYAKI塾北海道と沖縄が立ち上がり、それまでネット上での活動だったSUKIYAKI塾がリアルな地域活動に発展した、その2年後に震災が起こったのだったなと再認識した。

震災翌月に、思いを抑えきれずボランティア添削を始めたら、SUKIYAKI塾の仲間がどんどん参集してくれたときの感激、3年後、合格した方々と一緒に飲むというだけのためにいわき市まで行ったときのこと、あれこれ思い出す。
そして我が身を省みる。トシを取ったのは確かだけど、もっともっとがんばれるんじゃないのかと。

震災から2週間後、前からの予定があって、淡路島→徳島→高知→中村と旅をしたときのブログも読み直した。東北から遠く離れた地から、もっと遠く離れた地にのんきに旅をしてていいのか。そういう後ろめたさというか無力感のようなものを感じながらの旅だった。
そのせいだろうか、徳島で講義をして高知に移動した日のブログには、こんなことを書いていた。
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今日は徳島で出願筆記試験セミナー。例によって3時間ほどなにごとかほざいてきた。今回は東北関東大震災のことを、試験テクニック的なことにとどまらずけっこう話した。
「この大災害を、あれほどの防災インフラの惨状を、技術者としてあなたはどう考え、これからこの国の技術はどうあるべきだと思うのか」
この問に対する答えを持たぬ者は帰れというような、かつてないような強い意思をもって試験が行われるような気がしてならない。

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結局、そんなアツい試験ではなく、今思えば、私が勝手にアツくなっていただけなのかもしれないけれど、そのときのコメントも含めて、みんながアツく考えていたように思う。
津波といい、原発事故といい、あれは技術の敗北だったのだ。
これじゃいけない、何かしなければいけないという、考えてみれば誰からも「お前がなんとかしろ」と言われているわけでもないのに、誰もが技術者の一人として何とかしなければと考えていた時。
それからまだ10年もたっていない。
なのに俺のこの錆び付きようはどうだ。
上手にトシを取ろうと思っていないか。安易な心地よさを求めてはいないか。
…昔のブログって罪だわ。そのときの自分の思いとか、そういったものも全部よみがえってくるからねえ。

ちょうど名古屋からクレヨンさんの送別会の写真を送ってきた。

クレヨンさんとお別れだというさみしさからか、あるいは宵の口から騒ぎすぎて疲れたのか、いつもの名古屋のはっちゃけた笑顔がないのだが、それはそれとして、東北ボランティアセミナーを始めたとき、真っ先にクレヨンさんが自費で仙台に来てくれたことは、決して忘れないよ。…おっと、そのときのブログをと見返したら、bakuさんの奥さんの実家が民宿だと書いてあるではないか。コレハコレハ…^o^

もう一度あのときの気持ちに戻って、もう少し熱くがんばってみようか。

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