2013年1月9日水曜日

麻雀放浪記

ツアー中にブックオフであれこれ本を買ったのだが、ダントツで面白かったのは阿佐田哲也・「麻雀放浪記」全3巻だった。
漫画「哲也」の原典だけにいつもエピソードや登場人物を対比させて読んでしまっていたのだが、最後のところにきて戦後日本の近代化・先進国化に抗った人物物語だったんだなあと気づいた。

戦後の焼け跡では浮浪者も博打打ちも当たり前、博打だけで食べている、2つ名を持つバイニンもゴロゴロしていて、彼らは社会の中に居場所を持っている。麻雀の最中に死んでしまったバイニンの身ぐるみ剥いで素っ裸にしたあげく、明け方に輪タクで家の前まで運んでドブに放り込むというトンでもない敬意の払い方。それを言葉なしに理解しあうアウトロー達。

しかし最終巻のころになるとバイニンは絶滅寸前。インチキ会社に入るも結局は社長に刃向かい、最後は麻雀の世界に入ってきた暴力、そして堅気から細々と稼ぐシステムのどちらからもはじき出されて、やっとできた愛する女性すら捨てて、最後は浮浪者として地下街で寝起きし、チンチロリン(第一巻の冒頭と同じチンチロリン)ばかりしている。
それでもなお「糞面白くもない社会」よりも「博打ばかりしている」ことを望む。ヤクザに不条理この上ない方法で全財産を取られて、弱いから負けた、当たり前だと納得する。
だけど信念を持ってアウトローをやっているのかというと、どうもそうでもなく、サラリーマンになった同級生に「臭い」と言われて劣等感にさいなまれたりする。
結局、自分の思うように生きているという反面、それは時代の流れに取り残されているだけだったりするのだろう。

と、ここまで書いて無法松を思い出した。

自動車が現れて人力車が消えていく中で、車夫以外の生き方ができなかった松五郎。誰もが忘れてしまった太鼓が叩けるし、「なんば走り」で徒競走の一等になれるけれど、それらは全部世の中に必要なものではなくなってしまっている松五郎。間違いなく「ワイズマン」だったはずなのに、運悪くそれらが全部時代遅れになってしまった松五郎。好きな女性を思いつつも「わしは汚い」と苦悩する松五郎。結局酒に溺れて雪の朝に行き倒れて死んでしまう。

なんてバカな生き方だろうと苛立ったり呆れたりしつつ、ある種の憧れを感じてしまうのは、もし本当に己の才覚だけで誰にも頼らず自由に生きていけたらいいだろうなあという憧れの現れなんだろうな、きっと。
で、阿佐田哲也のギャンブル本を何冊か注文してしまったワタシなのでありました。^o^;

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