学校での体罰の話がかまびすしいのだけれど、体罰がいい・悪いの議論ばかりで、どこから体罰なのかの議論がない(あるのかもしれないが、私の耳には入らない程度に小さい扱い・声なのだろう)ことが気になる。
たとえば授業時間になったのに教室に入らず、校内を徘徊したり校舎の周りでウロウロしている生徒がいる。
先生が彼らを囲んで説得している。
いっさい手を触れることもできない。
肩に手を置いただけで「体罰だ!」と騒がれる。
いじめと似たところがあって、体罰も主観的なものだとされる。「君がいじめたつもりがなくても、彼がいじめられたと感じたのなら、それはいじめだ」と同じように。
それはその通りなのかもしれないけれど、授業を受けようとしない子供たちを「触らないように気をつけながら説得する」って、そりゃあ大変だと思うよ。
それはその通りなのかもしれないけれど、授業を受けようとしない子供たちを「触らないように気をつけながら説得する」って、そりゃあ大変だと思うよ。
そんな中、生徒が先生の言葉に耳を傾けてくれるようにする方法があると、私は思っている。自分のここ数年の経験から感じているというだけなのだけれど、必ず成功するとは限らないものの、それなりに勝率はいいようだ。
それは、「真心を伝える」という、あまりに理想論的で抽象的なことだ。
子供の心を開かせようと、あの手この手で先生は苦労する。
しかし「何をしたか」はあまり問題ではなく、先生がそういったことを通じて、どれくらいその子のことを心配しているかが伝わるかどうかが問題で、それは本当に「もうどうしようもない」と思ったときに「それしかできない」と思うくらい切羽詰った中で初めて伝わりだす。そんな例をそれなりに見てきた。
ということは、授業時間になったのに教室に入らない子を強制的に入るようにしたり、あるいは強制的に排除したりすることができればいいのではなく、むしろそういう子をどうしようもなくて、悩んで悩んで、その先にもう先生としての見栄とか立場とかを捨てかけたような状態の中で子供たちに心が伝わっていくということがいいのだろうか。
もしかするとそうなのかもしれないが、それでは先生はあまりにしんどい。今の先生たちのストレスたるや。
「体罰はダメ」
それはその通りだろう。でもそれは「どんなものが体罰というのか」をしっかりと定義付けなければ、先生たちをますます追い込んでいくことになりかねないと思う。
大部分は一生懸命やっているのに、不祥事や事件が起こると十把一からげで「あんなやつらはどうなってもいい」みたいな扱いをされる。そのくせ何かあると「がんばれよ。それがお前らの務めじゃないか」みたいに言われる。それがどんなに腹立たしく悔しいことか、土木業界の人間はよく知っているのではないだろうか。今はきっと発電業界の人がそう感じている。
自分以外の人間を尊重しない。
自分と考えが違うことを敵視する。
そんな心根で考えるから、何もかも「ダメ」みたいに突き放してしまうのではなかろうか。
そして突き放すということは思考停止に至る。
そりゃあ、世の中を「自分と自分以外のバカ」とか「自分の考えに賛成の人間と反対の人間」みたいに単純に分けてしまえるのなら、もう思考する必要はないから楽なのだろうけれど、それでは誰も幸せにはなれないように思うのだ。
心遣いのない世の中、「異質なものへの理解と慣用」がない世の中は寒々しい。
センター試験がある日にする話じゃないかもしれませんが.
返信削除正解もアプローチも多種多様な現代社会.
それだけ,いろんな価値観が存在しているからこその昨今.
土木設計とか,唯一無二な正解に向かって,対策案を打っているわけではない.
正解は,他にもあって,何を重視するかによって解は変わるし,アプローチだって,無数にある.
そのそれぞれを,なかなか否定はできない.
他の解もあることを認識・許容するのも大事.
他のアプローチを認識・許容するのも大事.
だからこそ,課題を見出す力や,それぞれのアプローチを辿る中で,解決を図っていく力が重要.
そうなると,どんな解であれ,確かなプロセスをたどるためのステップをいつも実行できる人材が貴重だと思います.
「確かなプロセスをたどるためのステップをいつも実行できる人材」…貴重というより希少といったほうがいいかもしれないくらい難しいことですね。
返信削除せめて「否定から入らない」ことだけでも心がけたいとは思いますが…
「否定から入ってくる人」に対して、ダメだこの人。と、否定から入ってしまう自分がいることを残念に思い、ため息が出てしまいます。
返信削除うーん、人の心は合わせ鏡ですから、否定する人を否定しないって本当にむずかしいですね。こちらによほど余裕があるとか、あるいは何も失うものがないとか、そういった状態じゃない限り、そんなことしてたらこちらの身が持ちませんしね。
返信削除現実社会では、自分の行動を省みているというだけで十分という面もあると思います。