2023年11月3日金曜日

20年周期で?

さあ、今日は本格的な三宅島周遊だ。朝食を食べてすぐに出発。

2000年噴火時の風下にあった付近の山を改めて見ると、立ち枯れた木々が林立する中、緑が回復しつつあるのがよくわかる。20年でここまで回復する一方で、昨日見た60年前や80年前の溶岩・スコリアは荒涼たるままだ。昨日のタクシー運転手さんは「火山灰で細かいから」と言っていたが、なるほど、溶岩の自破砕部やスコリアは保水性が全然ないから植物が育たないわなあ。土砂が流入したり風化が進めば土壌が形成されるだろうが、それは遅々として進んでいないということらしい。

昨日見た八重間マールの西隣のマールにある「大路池」へ。2500年前の火口にできた池とのことで、ここは高木を含む豊かな植生に囲まれて野鳥が多く、「日本一のさえずりの小径」と呼ばれているらしい。

そのほとりにあるアカコッコ館。天然記念物であり絶滅危惧ⅠBだ。

もともと三宅島には哺乳類はコウモリ2種とアカネズミの3種だけ、は虫類もオカダトカゲ1種類のみ、肉食哺乳類もヘビもいない中で、アカコッコは地面近くに巣を作ったり警戒心が薄かったところに、ネズミ退治のためイタチを人間が持ち込んで激減。繁殖成功率が80%から7%になって、絶滅危惧Ⅱ類からⅠBになったとのことだ。

さらに西に進む。1983年(昭和58年)の噴火で出現した新鼻新山。工事中で近くには行けなかったが、形成当時はもっと沖まであって輪っか状の火口だったらしいが、その後の浸食で陸側の斜面が残るのみとなったらしい。

そして栗辺海岸では、1983年噴出の溶岩流が海岸まで達していた。荒涼たるアア溶岩の平原。ここでもススキやイタドリしか生えていなかった。面白いのはこれまで見てきた1940年・1962年・1983年の溶岩やスコリアが見た目では区別がつかないこと。せいぜい80年では風化するはずもなく、植生で覆われもしないのであれば当然か。

そして三宅島で一番見たかったのがこれ、阿古地区の溶岩流である。阿古中学校の右側が体育館、左側が校舎跡だ。校舎は2階建てに見えるが、実は3階建てで、1階が完全に埋没している。さらにこの右側に阿古小学校が隣接している。この写真は海側から校舎を見ているのだが、この裏側が溶岩台地で、ここに遊歩道がある。つまりこのアングルは溶岩流の下流側から上流側を見ているわけだ。

今度は校舎の裏側、溶岩台地の上から海に向かって校舎を見る。つまり溶岩流の上流側から下流側を見る。これは阿古小学校だが、溶岩流に埋まってしまって屋上しか見えなくなっている。

阿古中学校の体育館。溶岩に埋められて鉄骨がねじ曲がっている。

校舎3階。床が見える。グランドピアノが残っていたらしい。こうして学校の海側と山側から見ると、学校がかなり溶岩をせき止めたように思われる。

学校から山側すなわち溶岩流の上流側にどんどんに歩いて、振り返ってのパノラマ写真。学校のところだけでなく、山側の広い範囲が溶岩で埋め尽くされている。そして例によってススキとイタドリくらいしか植生がない。

古い空中写真をみると、阿古地区の過半が溶岩流に埋没してしまったことがわかる。なんと400戸が溶岩の下になったらしい。1983年といえば、私が大学を卒業した年、ちょうど40年前だ。そんな最近に4000戸もの民家が溶岩に飲み込まれていたのだ。改めて愕然とする。

阿古地区の外れ、都道の脇ののり面。何の変哲もない玄武岩溶岩の露頭だと思うかもしれないが、溶岩流に飲み込まれた車の残骸が残っている。右の方にタイヤのホイール、左の方にエンジンが見える。こんな他では見られないものなのに、説明看板もなければ保存しようともしていないように見える。

ここで、林道を雄山(三宅島の主峰)に向かって上る。植生はどんどん貧弱になり、ススキ主体になってきた。

水が集まる沢部分は木が生えてきているが、それ以外は一面のススキ野である。
これは2000年噴火の火山ガスで植生が全部枯死してしまったことによる。わずか20年ちょっと前である。このときには有毒な火山ガスの噴出量が膨大になったため全島民が避難し、4年半帰れなかったらしい。

山頂付近は火山ガス警戒で入山禁止のままだが、すぐ隣にある1983年噴火のスコリア丘にある「七島展望台」からよく見える。ぐるりとパノラマ写真を撮ってみた。

林道脇には2000年噴火前の案内板があった。かつて火口の中には中央火口丘や「八丁平」という平坦地があってハイキングコースになっていたらしい。ところが2000年噴火で中央火口丘も八丁平も消滅して、深さ450mのカルデラが形成されたとのことだ。外輪山の標高が700~800m、カルデラの底が標高250mほどらしい。すっごいすり鉢なのだ。
ほんの20年程前にカルデラ形成などということが起こっていたことに愕然とする。

旅もそろそろ終りだ。日没近い西海岸へ。屹立する岩礁は三本岳。カンムリウミスズメの繁殖地で、1950年代に米軍の演習地候補地だったのを故ジャック・T・モイヤー博士が当時のアメリカ大統領トルーマン氏にこの希少種である海鳥の存在を伝え、演習が中止されたという逸話がある。

視線を右に転じれば神津島が以外に大きく見える。

さらにぼんやりとだが式根島。平たい島が見えるでしょう。

そして新島。実は左側半分が途切れているけれど。

さらに利島。すっごくぼんやりと三角の島がみえる。
こうしてみると、伊豆諸島は島の形が様々である。御蔵島などは断崖絶壁に囲まれているが、これは数千年も火山活動がないため浸食される一方であることが原因だ。
その点三宅島は、昭和以降だけでも1940、1962、1983、2000と4回も噴火している。だから溶岩やスコリアなどがどんどん供給されて島が小さくならず、また粘性の低い玄武岩で全体に緩傾斜で人が住みやすく港や飛行場も作りやすい。いいこともあれば悪いこともある。

振り返ると雄山がよく見えた。あの外輪山の裏側には450mもの絶壁陥没カルデラがある。
ふと気がついたのだが、1940、1962、1983、2000って、20年±3年周期だな。今は2023年だから…近々また噴火があるのだろうか。いや、2000年噴火は火山ガス主体で膨大なガスを出したし、カルデラができたということはマグマがなくなったということでもあるのだから当分火山活動はないのかもしれない。そんなことは誰にもわからないだろうけどね。

ホテルに戻って最後の夕食はムロアジだった。いかにも伊豆諸島らしい。

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