2020年8月10日月曜日

ツバメが鈴なり

なんということだろう。今日も5時前に自然と目覚めてしまった。こんなことは我が人生で初めてかもしれない。あ、中学時代に朝練のためにこれくらいの時間に起きていたことはあったかな。まあともかくせっかく早起きしたので、ささっと朝食をとって外に出た。

浜に出てみると、雲は朝焼けに照らされているものの、陸地にはまだ日が当たっていない。
まだ5時半を回ったくらいなのだが、すでに釣りをしている人たちがいる。

少し歩くと内外海半島が朝日に照らされ始めた。歩きながら風景を眺めながら添削もして、その合間にあれこれとめどなく頭に浮かぶにまかせていろんなことを思うという時間は、なかなかに気持ちのいいものだ。

さらに日が昇って、はっきりと明るく内外海半島が照らされるようになった。マリーナでは忙しくプレジャーボートを運び、漁港や砂浜ではあちこちで気ままに釣りに興じる人たちがいる。世の中がコロナコロナで騒いでいるのが別世界のような気持ちになってくるが、老母を気遣って帰省を控えてくれている子どもたちや親戚のことを思い出すと、やはり今年は特別な年なんだよなと思い直す。
自分がコロナに罹患するかどうかとか、そういった問題ではなく、無症状のままキャリアになってしまって大切な人たちを大変な目に遭わせてしまう万一のリスクを考えられるかどうかだと思う。「自分の行動が自分にどう返ってくるか」であれば、そのリスクを自分が許容できるかどうかだけの問題だから、他人にとってはどうでもいいことなのだが、「自分の行動が他人にどう影響するか」を考えれば、許容ラインはずっと下がってくるはずだ。
我が家の子どもたちも親戚も、気にしているのは感染者数とか重症化率とかではなく、高齢者の重篤化の割合の高さなのだ。

自宅前まで戻ってきたら、電線にツバメが鈴なりになっていた。今年生まれたヒナが巣立ったのだろうな。彼らはもうすぐミナミに旅立つ。あ、ミナミではなく南だった^o^;。
彼らが来年また戻ってくるとき、この国はどうなっているのかな。そう思わざるを得ない時代になってしまったのだな。
そういえば、私が地質学を志すきっかけともなった小松左京氏の名作「日本沈没」では、研究資金に窮していた博士のところに百歳を越えるという老翁が現れてパトロンになってくれるのだが、そのきっかけになったのが、翁の家の軒先に毎年来ていたツバメが来なくなったということだった。まあつまりそういった小さな事の中に天変地異の前兆を感じ取っていたということなのだろうが、電線の上にいる彼らは今何かを感じ取っているのだろうか。
さらに話は脱線するが、「日本沈没」が映画化されたときに学者役でNewtonの編集長でもあった竹内均氏が出演していた。福井県出身の竹内先生は、我が国にプレートテクトニクス理論を広めた第一人者だったのだが、あのころプレート派とアンチプレート派が地質学会の中で対立していた。私が就学した島根大学と新潟大学はアンチプレート派の先生が多かったこともあって、学生の身ながら両方の主張をたっぷりと拝聴する機会に恵まれた。^o^;
同じデータを双方が自分の都合のいいように解釈することに感心した。データって解釈次第でどうとでも結論づけられるものなのだなということを痛感した。何せ、同じデータをプレート派・アンチプレート派双方が「ほら見てみろ、俺の言った通りだろうが」と180度異なる結論の証拠扱いして声高に主張するものだから、もはや感心するというか呆れる他はないわけである。
同じことを地球温暖化仮説でも思った。地球温暖化の存在そのものや原因機構について、温暖化ガスによる地球温暖化という仮説とアンチが対立していた(今も対立している)のだが、ここでも双方が自分に都合のいい情報だけを集めて「そら見たことか」的主張をしているのが滑稽としか思えない。
今のCOVID-19も同じである。「あんなの軽い風邪」派と「重大パンデミック」派が自分に都合のいい情報だけ集めて「そら見たことか」と言っているのが滑稽で仕方ない。
一人一人が自分で判断して最善と思える行動を取ればそれでいいじゃないか。自分の行動は自分で責任を取るのだから、他人の行動にとやかく言う必要はない。眉をひそめたくなる他人の行動に遭遇したときには、何も言わずにすっと離れればいいだけである。わけのわからない〇〇警察化したりせず。

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