2023年11月3日金曜日

活火山の島へ

6時半起床。昨夜石井商店で買っておいたパンをかじって朝食。
出発まで時間があるので近くの史跡まで散歩。

「島酒の碑」なるモニュメントが玉石垣の上に鎮座していた。これが高知あたりだったら単に酒好きなんだなあと笑いを誘って終わるのだが、離島であるうえ本来の住民に流人も加わって人口比食材供給が厳しかった八丈島では穀類から酒を作ることが厳しく制限されていたらしい。そこにさつまいもから先を作る手法を流人の丹宗右衛門がもたらし、島酒が生まれたらしい。

さらにその横には玉石垣の階段の上に神社が鎮座していた。この小山はスコリア丘らしい。
ホテルに戻って荷物を持って3kmほどを歩いて港に向かう。

やがて「橘丸」が入港。昨夜遅くに竹芝桟橋を出て、三宅島→御蔵島と寄港して終点・八丈島に到着したのである。

さて、これで八丈島ともお別れだ。2回やってきて、ひととおり見て回ったから、おそらくもう来ることはないだろう。一期一会というが、この年になるとそれが実感を持って感じられるようになる。

一生に一度の東海汽船の船旅だと思ったので、大フンパツして特等を取った。本来夜っぴて航海する船だからシャワーやベッドなどが完備している。シャワーは浴びなかったが、ベッドでは横になって添削していた。
出港して2時間半ほど過ぎたころ、御蔵島が近づいていた。こちらから見ると断崖絶壁に囲まれていて、まさに絶海の孤島という感じだ。沖縄の平べったい離島を見慣れた目にはびっくりである。
港のある方向に回り込んだものの、断崖の下に無理矢理作ったという感じの港であった。

集落はその断崖の上にかたまっており、かなりの高さだ。
そういえば今日は波静かな好天なのだが、三宅島への寄港は確約、しかし御蔵島は波次第ということであった。さらに宿泊施設が限られているので、予約なしで上陸しないほうがいいよとのことであった。
八丈島出港から3時間、船はいよいよ三宅島へ。

三宅島が近づいてきた。なんだか二重に見える。黒い島の向こうに白い島があるような。

近づいてくると、それは植生の違いであることが分かってきた。下の方は緑だが、上のほうは裸地のように見える。こんなところに、それも斜めに植生限界があるわけがなし、なんなんだろうと思っていたのだが、タクシーの運転手さんの話では、2000年(平成12年)の噴火で噴出された火山ガス(二酸化硫黄、硫化水素)で山頂付近と風下方向の植生が全部枯れてしまって、今ようやくススキを中心とした草本から低木林に回復しつつある状態なのだそうだ。よく見れば立ち枯れた木の幹が骸骨のように林立していた。いきなり火山活動の猛威を実感。

タクシー会社でレンタカーを借り、そのときにもらった「ジオマップ」なる興味深いマップをもとに、近くのポイントへ。
まずは「ひょうたん山」。1940年(昭和15年)に山腹割れ目噴火が発生して「赤場焼湾」を埋め尽くし、さらに海中噴火内に火口が形成され、この「ひょうたん山」が形成されたという。80年以上前(たまたま、先に抜き取られた旧西津橋の松杭と同じ年)のスコリアや自破砕溶岩なのに、砂漠のように広々と荒涼たる風景が広がって圧倒された。ススキとイタドリくらいしか生えていない。

ひょうたん山火口のパノラマ写真。海の方にもうひとつ火丘があって、それとセットでひょうたんのように見えたのが名前の由来らしいが、海蝕で海の方のひょうたんは途中でなくなっていた。

三七山。これは1962年(昭和37年)の噴火で形成されたスコリア丘だ。60年前だが、ひょうたん山の80年前と区別がつかない荒涼たる風景。

その他にもいろいろ行ったが、夕方であまりいい写真が撮れなかったから明日再挑戦することにした。これは三宅高校。八重間マールという爆裂火口(古いものらしく、火口部分は堆積が進んで平地になっている)の中に立っている。

ホテルに入り、夕食。地元の魚と(写っていないが)ムロアジの刺身など。満腹。
一日動きまくったこともあって、食後に今日の模擬面接応募処理やマンツーマン講座受講生からの口頭試験講座の添削をしていたらもう限界。ぐっすり寝ました。

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