2020年2月26日水曜日

中庸はむずかしい

毎年、飽きもせず、と言っては失礼だけれど、次々に依頼される添削に忙殺されている。好き好んでやっているわけだから文句をいう筋合いではなく、まだそれだけの仕事ができる我が脳味噌に感謝しつつも、時に睡魔と戦いながらパソコンやスマホの画面を睨んでいる。
そしていつも思うのが、「鵜呑み」と「独りよがり」の中庸というものの難しさである。

基本的に経験論文であれ筆記試験答案であれ、「~といわれている」みたいな傍観者的視点で書くのではなく、「私は~と考える」といった一人称的書き方、つまりは「私の意見」の視点で書くことが望ましい。それは試験対策として、つまり点数を稼ぐためにも必要なのだけれど、何より技術者たる者、自分の頭で考えなくてはならないだろうと思うからである。

ところがこの立ち位置が難しい。

「自分の頭で考える」と「自分の頭だけで考える」は大違いである。
技術に関するテーマであろうが何であろうが、世の中のいろんなことを学びもせずに、たかだか一人の人間の頭の中で考えたとしても、そんなのはたかが知れている。「独りよがり」というヤツである。あるいは「居酒屋談義」と言ってもいい。
聴いていて、あるいは読んでいて、鼻白むどころか恥ずかしくさえなることがある。十九二十歳の若造が言うのならともかく、いい歳をして何を世間知らずなことを言ってるんだと苦笑することもある。

かと思うと、「あなたはどこにいるんだ」と言いたくなるくらい、「自分の意見」が微塵も見えないこともある。「私はこう思う」ではなく「本にこう書いてありました」「こう書けば点数が取れると言われました」なのである。
いい大人がこんな自分の意見も持てない頼りないことでどうするんだという気分になる。ステレオタイプというヤツで、これはこれでまた「世間知らず」であろう。いや、世間におもねりすぎているのか?

結局、「自分がない」か、「自分しかない」かのどちらかなのである。
その真ん中に立てないかなあといつも思う。
いろんなことをいっぱい学んで、考えて、その上で「私はこう思う」と言えないかなあと思う。

私も今年還暦を迎える。
60年も生きてきたのであれば、独りよがりの「自分だけワールド」を振り回したり、逆に世間に迎合するばかりの「自分なしワールド」を晒したりしていたのでは恥ずかしい。
お前はそうはなっていないと言えるのか!と言われるとはなはだ自信はないのだが、「人様にあれこれ言っておいてお前はなんだ」とだけは言われないようにしたいという気持ちだけは持っていたいと思う。

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