2017年9月16日土曜日

放生会はけっこう複雑

先日も書いた放生会が始まった…はずだったのだが、さすがは雨番、台風の影響でほぼ中止状態。

出店は例年に比べるべくもないがともかく出てはいて、中高生を中心にまあ例年に比べるべくもないがそれなりの人出。

神社では浦安の舞が演じられてはいるものの、まあやはり例年に比べればさみしい祭りとなった。

ということで、今年はほぼ中止になってしまった放生会(ほうじょうえ)だが、若狭地方最大の祭礼である。
ところがこの祭り、実はけっこう複雑である。

名前からもわかるようにこの祭りは生き物供養の祭礼で、江戸時代は八幡神社というところで相撲やらやっていた、まあのどかな村祭りのようなものであったらしい。
一方、江戸時代には祇園祭という若狭地方最大の祭りが行われていた。広峯神社という当時の地域で一番格上の神社の祭りで、竹原地区の祭礼だったのだが、時の藩主・酒井忠勝の肝いりで大規模化した。祭りというのはそもそも神様が神輿に乗って遊びに出るのだが、かつては船旅をしていたところ難破しかかって以降、陸路でくだんの八幡神社に遊びに行くことになったらしい。このときに神様の乗った神輿の行列を彩る出し物があるのだが、これが酒井の殿様の肝いりでおおがかりになったらしい。

やせ(夜叉)がキュウリを腰に下げてでっかい支木を持って先頭に立ち、その後に「通り長屋」という足軽長屋に住む足軽が「棒振り大太鼓」というものを演ずる。これは漁師の神様である弁天様を祀った宗像神社の氏子たちの芸能で、この宗像神社の別当を務めた松福寺(曹洞宗。元の名前は海蔵院)の坊さんが豊漁祈願のために作った太鼓曲で、僧兵の棒術をアレンジした棒振り演技を伴っていたという。

そして祇園祭の氏子である下竹原の神楽、酒井の殿様が前任地である埼玉県川越から連れてきた足軽が演ずる獅子舞が続いたという。
広峯神社から八幡神社までの往路はこうして足軽が演技をして巡幸したようだが、帰路は小浜町の町民が送ったようで、おそらく往路の足軽演技を真似たのだろう、棒振り大太鼓などの演技がかなり早い時期に記録に出てくる。特に江戸時代後期になると商人はカネを持っているから行列はド派手になり、その様子が絵巻として記録に残っている。

江戸時代後期に流行った唐子衣装が登場しているが、赤熊をかぶり唐子意匠を着ているのが「棒振り」である。なかなかおもしろいのがこの棒振りの演技で、発祥の地・西津地区では棒術の型の演技だけあって、目突き・金的・向こうずね払いといった急所攻撃が随所に出てきて、武道だけに棒を振り回したりせず最小の動きでシャープに攻撃するのだが、これが町民に伝わると武道ではなく踊りになるのだろう、小浜地区の棒振りでは棒を大きく振り回して先端ではないところ(つまり刃先ではないところ)を打ち付け合ったりするようになる。

まあそれはともかく、往路は足軽、帰路は町民がにぎやかにもり立てて若狭地方最大の祭りであった祇園祭だが、明治維新とともにこれらの出し物がなくなってしまう。氏子制度が徹底されて、氏子でないものが祭礼に参加することができなくなったのだ。
こうして足軽は本来の地元の祭りに戻り、西津地区の七年祭り・西津祭りに棒振り大太鼓演技を出すことになり、川越から来た獅子舞の「関東組」は、お城の二の丸三の丸西の丸などに住み着いた元足軽たちと一緒に酒井の殿様を祀った「小浜神社」の祭礼に棒振り大太古と獅子舞を奉納するようになった。もともと氏子だった下竹原地区は、祇園祭で神楽を奉納するのかと思いきや、地元の七年祭りで神楽を演ずるようになった。
こうして祇園祭は出し物を失い、武者行列だけが残るこじんまりした祭りになり、小浜町民の出し物は奉納先がなくなり、廃れてしまった。

ところが、日露戦争の戦勝記念とかでこれが復活した。かつては村社だった八幡神社が県社に格上げされたものだから、この祭礼である放生会を盛り上げようということになって、かつて祇園祭に出していた出し物を復活させ、今度は放生会に出るようになったのである。
廃れてしまった演技を思い出すのは大変だったとみえて、住吉地区などは西津地区から棒振り大太鼓を習い直している。
当初は仮装行列なみの面白い出し物もあったようでバリエーションに富んでいたが、高度経済成長期を経て、素朴な仮想ものなどは廃れていき、出し物を変更する地区が続出、昭和30年代後半には、棒振り大太鼓、山車、神楽、獅子舞の4つにほぼ収斂したようである。
もともと神様が巡幸するような祭りではなかったせいか、祭りなのに神輿もご神体も神社から出ず、さらには出し物も宮出しがなく宮入りだけあり、神様が神社から外に出ていないにも関わらず「仮宮」があるという、祭礼としてみるとまことに珍妙な祭りになっているのだが、まあ現代ではそこまでこだわる人もいない(というか、もともとそんな決まり事もない)のだろう。
そういう意味でいうと宗教行事としての祭礼というよりフェスティバルなのだが、それでも日露戦争後のリニューアル後100年ほど続いているのだから、歴史はそこそこにあるし、なにより小浜地区の氏子の皆さんの思い入れが素晴らしい。今では文化財指定されているが、これも努力の賜なのだろうなと思う。

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