2012年4月4日水曜日

袖擦り合うも

NPO活動の中でいろんな人たちと協働するのだが、お金や役職上の責務といった「縛り」があまりないことが多いためか、気分とか考え方とか機嫌なんかが表に出てくることがけっこう多い。
そして感じるのが、人間とは感情の生き物であり、その感情も複雑極まりないということだ。

たとえばずっと前だがこんなことがあった。
高校生たちと一緒に清掃活動をしようということで打ち合わせをしていた。
例年やっている清掃エリアと異なったエリアを私が提案した。もちろんそれなりの理由があった。
それが賛同を得られたので、清掃エリアを変更することになった。
ところが集合場所だけ例年と同じにすると委員長が言う。
それはもちろん合理的ではない。わざわざ離れた場所に集まる必要はない。
ところがなぜか委員長は集合場所にこだわる。理由を聞くとそれなりに答えるのだが、もともと合理的でないから、答えるそばから反駁されてしまった。
ところがところがさらにこだわり、ついにはそもそも清掃エリアを変えることは好ましくないと、先に同意したはずのものを蒸し返し始めた。
じゃあなぜ清掃エリアを変える必要がないのかと聞くと、これまたとってつけたような理由なので、またもことごとく反駁され、でも委員長も引かず…ということで、堂々巡りみたいになってしまって、実に無駄な時間を過ごしてしまった。
…とまあ、こういう場面であったのだが、こういうのってそれなりによくある話ではないかと思う。

「納得できない」「賛成できない」といった言葉は、それこそ一言で済む言葉なのだが、その中身は本当に複雑・様々だ。ロジックだけなんてことはほとんどなくて、なんとなく癇に障るとか、中身ではなく言っている人間が嫌いだから反対するとか、これまでのいきさつ上賛成したくないとか、メンツの問題になっているとか、まあ賛成しない理由はいろいろある。
そして意見対立の理由が違っているとき、たとえば一方はロジックだかもう一方はメンツの問題でYesと言えないといったとき、議論(といえるのかどうかわからないが)は収斂を迎えることなく、一方的な主張の行ったり来たりでただ応酬が繰り返され、時間が過ぎていく。
最初からロジック対メンツだと表に出ていれば「それは交わることはないからやめよう」と言えるのだが、困ったことに「自分は大人で、ロジック以外の感情的理由で主張するような人間ではない」と思われたいから、本当の理由は極めて非合理的で感情的なものであっても、正当な合理的理由があるかのように形を整えようとする。もちろん感情的な言葉は慎み、敬語を使いボキャブラリーを駆使して主張を滔々と述べる。
それは、言葉上は冷静で客観的な議論みたいになっているもののよく聞くと屁理屈の応酬にすぎなくて、ところが双方が自分の言っているのは屁理屈ではなく立派なロジックだと思っている(もしくは違うとは言えない)から互いに一歩も引かず…という、実に非生産的な時間浪費になってしまうわけですね。
そして下手をすると、最初はほんの少しの、どうでもいいような食い違いだったものが、やがて抜き差しならぬ、まるで互いの人生をかけたようなやり合いになってしまうことだってある。
さらにこれが匿名性の影で言いたいことがいえるネットだったりすると、人格攻撃の応酬となって、やがてマルチハンドラーが現れたりしてもうどこまでも拡散して収拾がつかなくなる。

「こだわり」といえば、今は出願書類作成講座をしているのだが、経歴の最終月が24年4月になっている人がたまにいる。「これでは4月が満了するまで出願できないから5月出願になって、何かあったらアウトになるリスクが出てきます。もう経歴は十分あるんだから今さらあと1か月稼いでも意味がないので、24年3月にしておきましょう」というのだが、なぜか頑として4月にこだわる人もいる。5月出願でも問題ない、万一何か不備があって出願締め切りを過ぎてしまうリスクも受容するというのだ。なぜそこまで?と聞くと理由は返ってくるのだが、これも理屈になっていない。以前にもそんなことがあって、理屈になってないことをうっかり指摘したら「私が決めたことなんだなら放っておいてくれ!」とキレられてしまって困ったことがある。

ことほど左様に人間は感情の生き物、非論理性を持った生き物で、総監の青本などではインセンティブがどーとかバイアスがどーとかいってこの非論理的な部分も御するべきであるみたいに書いてあるのだが、いやいや現実には大変で、技術者同士とか共通項が多い者同士ならまだしも、それこれそ「多様な価値観」を持っている市民同士ではまさにカオスになってしまいそうなときもある。

だからどうすべきだということを言いたいのではありません。
最近あった何か具体的なことを遠回しに言っているのでもありません。
ただただもう「すげえなあ」ということを言っています。
NPOをやり始めて、会社人間だったときには絶対に足を踏み入れなかったであろう領域でいろんな人と袖擦り合うようになって、ホントに「すげえなあ」と思っていることなのです。
そしてそれは人間が人間である以上なくならないので、うまく距離感をもって付き合わざるを得ないんだろうなと思うことなの…だろうなあ。

2 件のコメント:

  1. カチナノリ2012年4月6日 0:08

    感じられていることは、現実の大人の世界では、沢山存在します。そのような方のより集まりだから、行事が進むこともあるのだと思います。
    技術者同士の交流に深まっている私は、同じ理由からであると、自分自身納得している面があります。
    だって、朝から晩まで、そのことの戦いなのですから---。
    楽しく行事を行うには一定割り切らないと、しんどいだけです。私も愚痴、言ってしまいました、すみません。

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  2. ほんと、いろいろありますよね。
    まあ簡単に割りきれないから人間面白いんでしょうけどね(^o^)

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