2023年7月15日土曜日

小浜祇園祭

いつものように海岸通りを朝の徘徊に歩いていたら、何やら人だかり。

ああ、祇園祭りの準備だ。祇園祭と言えば京都だが、小浜市民にとっては祇園祭りといえば広峰神社祭礼である。小浜市の広峰神社は鎌倉時代くらいの創建らしいのだが、かつては祇園祭の行幸は船を仕立てて小浜湾を渡ってどこかに行っていたらしい。それが海が荒れて危うく遭難しそうになったので、陸路で小浜八幡神社に行くようになったらしい。旧小浜は町民の町だから江戸時代にはたいそう羽振りもよく、行幸からの帰路には様々な出し物で盛り上げたようで、それが祇園祭り祭礼絵巻などという形で残っている。ところが明治時代になって氏子制度が厳格になったため広峰神社の氏子ではない旧小浜町民は祇園祭りに出られなくなり、派手な出し物は途絶えていたのだが、日露戦争の戦勝を記念して八幡神社が村社から県社に格上げになると、これを盛り上げようと途絶えていた祇園祭りの出し物を、今度は八幡神社放生会に奉納することになったらしい。と言っても長い間途絶えていた祭礼芸能だから復活させるのも大変で、小浜住吉などは西津福谷から太鼓演技を習得しなおしたという。

それはそれとして、広峰神社の本来の氏子は竹原地区で、神社よりも上流側にあるのが上竹原、下流側にあるのが下竹原、当然ながら地続きだったのだが、下竹原は小浜城築城に伴って集落ごと立ち退きの憂き目にあい、隣接する小尻地区ともども西津海岸の松原を切り開いた小松原に移転せざるを得なくなった。小尻地区(今の川西)は漁師町だったので漁師のお守り神である弁天様すなわち宗像神社と共に西津地区に移転して、後に小尻の次男三男が独立して作った出村地区(今の小松原)とともに漁師の祭りである七年祭りを続けた。
一方下竹原は七年祭りにも参加しつつ、祇園祭にも参加し続けた。祭礼の朝、西津の浜から三艘の船を出し舟太鼓を打ち鳴らしながら競争して北川に入り、広峰神社から運び出された三基の神輿を舟に乗せ、小浜城の堀の構造上南川につながっているのを利用して南川に入り、岸から引っ張りながら盛大に遡上して今の自動車学校あたりで陸揚げし、府中の氏子が担いで府中地区に入り一泊し、そして小浜八幡神社に行幸するという、非常に大掛かりな祭礼へと進化したようだ。往路は西津や竹原の「通り長屋」の足軽が大太鼓、下竹原が神楽、そして関東組(今の一番町)が獅子舞を演じつつ八幡神社に至り、帰路は小浜町民が派手に出し物で送るというものだったようだ。大太鼓や神楽、獅子舞といった芸能はその時に旧小浜町に伝わったのだろう。そして広峰神社に宮入りし鎌取神事を行なったらしい。

その後明治時代に入り、氏子制度の厳格化で行幸はなくなり、旧小浜町民も参加せず、北川と南川はもう繋がっておらず(つながっていたお堀部分は埋め立てられて旧雲浜小学校のグラウンドになった)、さらに南川は大正時代になって改修されて新しいバイパス流路ができ、これに伴って上竹原地区も広峰神社と地続きではなくなってしまった。
広峰神社は氏子ではない千種地区の一部になって、祇園祭りも神輿を下竹原に海路運ぶという、かつてと逆経路で行幸するようになったというわけだ。
江戸時代に往路で演じられた芸能も、足軽たちがそれぞれの地区で自分たちの神社のために演じるようになったから、今では祇園祭の「出し物」は神輿だけになった。

夜、もう一度西津漁港に行ってみたら三基の神輿が仮宮に収められ、夜店が出ていた。出し物はよさこいであった。祭神は祭りの様変わりを楽しんでおられるのであろうか。
以前、小浜神社の先代宮司が私に「神様は祭礼を楽しんでおられるのだから、賑やかに囃し立ててくれれば、芸能は何でもいい」と教えてくれた。そのことが私の中にすっと入っていって、本当だなあと得心がいった。だからきっとよさこいでもいいのだろう。神様のほうを向いて演じてほしいなとは思ったけど。

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