2020年8月24日月曜日

潤いを

 我が家の寝室は北向きと東向き窓があって、お盆を過ぎると時には網戸のままで寝るとちょっと肌寒いくらいになるのだが、今年もようやく夏布団をかけないと寒いと思うくらいになった。
外では虫の声が日増しに賑やかになって行く。季節はちゃんと進んでいるのだ。

それでも早朝はまだまだ十分に涼しくはならない。今朝も朝日にオレンジ色に照らされながら入道雲がむくむくと盛り上がっていた。

ふと見ると路傍にお地蔵様の祠があって、地蔵盆の飾りが残っていた。昨日が地蔵盆だったのだ。
例年であれば鉦の音が賑やかになりひびき「参ってんの~」という子供たちの声が響き、水鉄砲を持った子供達が自転車で風のように走りすぎていく風景が見られたのだが、今年は祠を祀っただけだったのだな。
今年は祭りもなかったから、地域の子どもたちはもちろん、本当に地域の人たちとの交流がなくなった。 そういったものがなくてもちゃんと生活はできるわけだけれど、やはり潤いがないな。

最近は毎日日の出の前に起きて1時間以上歩き、朝食後も1時間ほど外仕事をして、集中してデスクワークをやり、昼にはそばなどちゃちゃっと作って豪快にすすり、それからスカッと昼寝をしてまたデスクワークをしたり外へ用事をしに出たりして、夕食後も今度は女房と歩いて、早めに風呂に入ってあまり夜更かしもせずにスカッと寝ていて、それはそれで生産性の高い充実した日々を送っていると言えるのだろうけれど、 やっぱりそれは潤いがない。
長年かけて積み上げてきた生産性の高さを自分でも感じながら満足して頭をフル回転させながら仕事をする時間も快感なのだけれど、ゆったり流れる時間を感じながら生産性などどうでもいいやと思いつつぼーっとしたりバカ話に興じたりする時間も快感で、きっとこれがなければギスギスした人生になってしまうのだろうな。

そのことを一番感じたのは今からもう5年前、与那国島に行った時だったな。レンタカーで頑張って島のあちこちを見て歩き、一通り見終わって、だけどレンタカーを返す時間までは十分余裕があるので、共同売店でマーミヤかまぼこを買ってノンアルオリオンビールを飲みながら漁港の近くのビーチでぼーっとした時間を過ごしていた時だ。何なのかなこの幸せ感はと思った。あれから八重山のいろんな島に入ったけれど、どこに行っても同じような空気を感じられて、行くのが楽しみになっていったものだった。

ああそうだ、高知に行った時に午後の早い時間からひろめ市場に行って、ぼーっとしながらビールを飲んでいた時間も同じように幸せだった。

たぶん私はあちこちで無意識のうちにそういう時間を作っているのだろうと思う。それがきっとメリハリになって、我が老化しつつある脳味噌にエネルギーをくれている(ドーピングに近いような気もするが)のだろうと思う。

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