2019年6月5日水曜日

21歳の自分

朝、レンタカーを借りて西郷から大久→布施→中村→五箇→都万と島を反時計回りに一周することにした。

確かこれが隠岐で最初に見たグリーンタフの露頭だったと思う。恩師の島田先生が「ペイルグリーンというのはこの色だ」と教えてくれた。

細かなラミナの入った凝灰岩。私はこれを「美人」という表現で表していた。愛おしくてなで回したこともあったように思う。今思うと変態ぽいが、それだけのめり込んでいたのだろう。

続いてすぐ近くの久保呂海岸へ。ここは私のフィールドではないが、一緒に卒論をやっていた「へびねえさん」と一緒にサンプルを取りに来た場所だ。

このように、玄武岩の中にかんらん石や輝石がカタマリで入っている。マントルゼノリスといって、マグマが上昇してくる途中でマントル物質を取り込んで上がってきた非常に珍しいものだ。当時は「オリビンノジュール」なんて呼んでいた。

布施の浄土ヶ浦海岸。ここにも何度となく来たと思う。私のやっていたフィールドに分布する下部中新統をひととおり見ることができるので、ここをタイプロカリティーにして「浄土ヶ浦層」という名前を付けようとしていたことがあったなあ。カッコイイじゃないか。

ここの凝灰岩には「火山豆石」が入っている。同心円状の模様が見える。ジオパークの案内には使われていなかったが、「ピソライト」と呼んでいた。

中村から五箇に回り、かなり腹が減ったので「五箇創生館」にて遅い昼食。隠岐そば(さばだしでいただくそば粉のみのそば)と「ばくだん」(丸いおにぎり)など。隠岐は海藻料理がいろいろある。

福浦トンネル。海岸沿いの昔の道の途中にある手掘りのトンネル。

こんな感じで、海岸沿いに狭い通路を穿ち、地形的にそれができないところはノミでトンネルを掘っている。軟らかい流紋岩質凝灰岩だからできることだ。

島の南西端にある那久崎。すぐ近くに隠岐島前の島々が見える。ガスってて見えないが、私はそういうことに慣れているので心の目で見る。ToT

大津久の礫岩。ペンキで塗ったか?というほど鮮やかな青緑色だが、これはセラドナイトという鉱物の色。それで思い出したが、ユニの色鉛筆の「セラドン」という色が好きで、そればかり何本も買ったなあ。一番大事なデイサイト質凝灰岩の色に使っていた。
西郷に戻ってきたら午後4時を過ぎていた。一周はしたし、もう夕方になるから、買物をしてホテルに戻ろうと思っていた。買物というのは靴で、今日1日でかなりくたびれてしまったのと、本来は冬用の靴を履いてきてしまっていたので、ここで取り替えようと思ったのだ。ホテルからいろいろ送るものもあるから、ちょうどいい。

運良く気に入った靴が見つかったので購入し、店の前に出た。
店の前の道をホテルと反対方向に行けば、もう一度中村に行ける。その途中に、実は一番気になっているところがあるのだ。
林道東谷線という。
私が卒論に入ったとき、最初に行ったところだ。ここをフィールドを選ぼうと決めた大学3年の時の島田先生の隠岐行で来た沢だ。それから卒論、さらに修論と進む、私にとっての「隠岐の地質」はここから始まったと言ってもいい。
ものすごく気になっていたのだけれど、GoogleMapで調べてみると、もう入口の県道そのものが新しくなっていて、旧道から入っていかねばならない。それもかなりの距離、旧道を走らねばならない。きっと草ぼうぼうで、林道ももう車で入っていける状態じゃないだろう。だから気後れしていたのだが、「いや、もう一生来ないだろうから、これが人生ラストチャンスだ」と思って、ダメ元で行ってみることにした。

旧道は意外に走りやすく、時々伸びた草がちょっとかかってくる程度だった。
そして驚くべきことに林道東谷線はちゃんとあった。記憶に残る橋がちゃんと残っていた。

車を止め、歩いて橋を渡ると、ちゃんと「東谷線」の文字が。

歩いて行くと、驚いたことに草ぼうぼうどころか舗装されている。私が卒論をやっていたころには未舗装だった。

想像より2倍以上歩いて、安山岩の露頭が出てきた。このあと、順次下位を見ていくことになる。凝灰岩、そして頁岩、そしてまた凝灰岩、凝灰角礫岩と続き、そこで林道は終わる。さらに奥に行くと基板の隠岐片麻岩が出てくる。

予想以上に安山岩が続き、ちょっと不安になりかけたころ、凝灰岩らしい露頭姿になってきた。

その奥に頁岩があった。この頁岩は私のフィールドの層序を考えるうえでとても大事な層で、またここで半日岩を叩いて、メタセコイアの化石を出したこともある。
当時のことが一気に思い出されて、胸がいっぱいになってしまった。
思わず露頭の下をみると、落ちてきた頁岩がいくつかあった。

拾って握ると、手で簡単に砕くことができた。何の変哲もない頁岩だ。
「この程度のもんに、なんであんだけ必死になっとったんやろ」
口に出した途端に涙が溢れた。
あの頃の自分がすぐ横にいるような気がした。
今思えば笑ってしまうくらい未熟で、生意気で、まだ何も持っておらず、何も成し遂げておらず、だけど思いだけはあって、だけど不安で、それをカラ元気で押さえ込んで、このフィールドに足を踏み入れたばかりの自分だ。よれよれの服を着て安全靴を履き、ズタ袋のようなリュックを背負って1kgハンマーとクリノメータをベルトに付けた自分だ。
卒論を始めたばかりだからまだ21歳、自分一人でやり遂げるという思いばかりが空回り気味だった。臨海実験場で一人で暮らし、毎日とにかく山に入っていた。
そういう時期だったからだろうか、いつの時代の自分よりも、この時の自分が一番愛おしい。できることなら呼び止めて抱きしめ、「大丈夫だからがんばれ」と言ってやりたいと思った。
しばらくそこを動けなかった。でもさすがに暗くなってきたから帰らねばと歩き始めた。完全に呆けていたのだろう、びっくりするくらい早く車に戻った。西郷に戻り、ホテルに車を置いて、今度は歩いて西郷のまちまで出た。

もう7時過ぎだが、西日本の日は長い。大満寺山が私を見下ろしている。
夕食を食べながらも、心はまだ東谷線にあった。あんなにものの見事に21歳の自分に出会ってしまうとは思わなかった。
私は凝り性なので、昔から何にでも必死になってしまう。「そのために生きています」と言わんばかりになってしまう。
でもその中で、隠岐での卒論は別格だ。自宅からも大学からも離れて、知り合いもいないこの島で、手探りで地質図を書いていった。今思うと要領が悪い話だが、毎日とにかく山に行った。
その中で、その後の自分の人生を支えていると言ってもいいほど多くのことを身につけた。あれがなかったら今の自分はなかったと思う。あれ以降、何があっても「オレはあれをやりきったんだから大丈夫」と思えるようになった。
東谷線で出会ったのは、そうなる前の、不安でいっぱいだけど思いだけはあって、とにかく前へ進むだけだった自分だ。

ホテルに戻る途中、もう8時を過ぎているというのに、そして眉月しかない新月同様の夜だというのに、まだ大満寺山が見えた。
ちょっと無理をしてでも東谷線に行ってよかった。このために隠岐に来たとさえいえる体験だった。
これでもうこの島には来なくていい。観光か何かでくることはあっても、昔の自分に出会いに来る必要はもうない。

東谷線で出会った21歳の自分のことを思って、もう一度涙が出た。
頁岩をにぎったまま年甲斐もなくおろおろと泣いている私の横で、21歳の私は露頭観察を終え、マップと野帳をふところにしまい、顎をぐっと上げて沢の奥の方へ進んでいった。
あのときの自分に恥ずかしくないように生きていこう。
私の残りの人生が、あのときの自分の年齢ほどもあるかどうかは甚だ怪しいが、それでも今日死んでもいいと思って日々をやり抜き、死など訪れないと思って夢を見よう。

6 件のコメント:

  1. APECさんの歴史の一部を感じることができました。
    熱い文章ありがとうございました。

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  2. 詩人ですね。何もないけど自信だけがあるのが若者ですよね。

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    1. そうですね。本当に特権だと思います。

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  3. 大変ご無沙汰しております。APECさんと隠岐にこんな熱いつながりがあったんですね。私は業務で4年ほど関わったのですが、地質が専門でない私でもほんとに面白い島でした。

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  4. 実はあれから1ヶ月近くたつのに、まだ隠岐で過ごした数日を思い出します。もう行くことはないでしょうが、やはり思い出深い島です。

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