2011年7月22日金曜日

非合理であることの魅力

2日前に新しいイベントが飛び込んできて、これはアート関係のものなのだけれど、非常に情熱的なプレゼンを見せていただいた。
そのなかで「ARTって何?」というフレーズが何度も出てきて、それを私はぼんやり見ていたのだけれど、大変失礼かもしれないが「アートって非合理のカタマリなんじゃないかな」と思ったりしていた。

技術の世界は合理的であることが生命線なのだけれど、アートになると合理性を伝えるツールはあまり役に立たなくなって、言葉では言い表せない空気みたいなものとか熱みたいなものとか、まあつまりは理性ではなく感性で受け止めるものがメインになってくる。
これはセオリー化も一般化もなかなかできず、まあつまりは不安定でアテにならない、技術者としてはあまりお近づきになりたくない世界なわけですね。

その一方で我々の世界も、たとえば合意形成の場なんかで百の論理的妥当性・合理性を説明するよりも、たったひとつの笑顔が信用をゲットすることだってあるわけで、ある種のカタストロフ的なものではなかろうかと私は思っている。
まあこれは会社組織の奥のほうに閉じこもって数式を振り回してればいいみたいな、ある意味うらやましい立場の人には縁のない世界ではあるけれど、私はどっちかというと「たったひとつの笑顔」が非合理だと入って排除されるのではなく、それをよしとして流れている「非合理な」社会のほうが魅力的に感じる。もちろんすべてが非合理では困るのだけれど、すべてが合理的な社会も面白みがないじゃないか。

面白いといえば、言葉の力の面白さも再認識している今日このごろだ。
同じものをどう言い表すか、単語の選び方、その前後の言語とのつながり、さらには漢字とかなの使い合わせ、話すときのイントネーション…それらをうまく使いこなすと、時には合理性が吹っ飛んでしまうような説得力を持ったりするし、理性の下にある情動に直接働きかけた時には、「理屈抜き」で「どうにも抑えがたい」想いや行動を引き出すこともできたりする。
作家や詩人(作詞家も含む)はその力を使いこなす術を身につけているし、たとえばそれにさらに曲や音を加えて人の心を揺り動かす力を持たせるシンガーソングライターなんかもいる。こういう人たちの世界に接すると、「言霊」という言葉を実感することもしばしばだ。

私も一応セミナーなんぞをやって、言葉を使いこなすべき立場にいるので、その「言葉力」は磨きたいといつも思っているのだが、これも「非合理」の世界であるだけに方程式化できず、感性といういつ消えてなくなるかもわからないような不安定なものに頼って日々を過ごしている。

うーむ、最近プリン体85%カットなどというアヤシゲなビールを飲むようになったせいか、なんだか時分でもわけのわからないことを書くようになってきたぞ。^^;


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